昨日は、アミー(5月19日にこの世から旅立った愛犬、ポメラニアン)の四十九日の為実家に帰っていました。
たった23時間の滞在。
その話を少しだけ。
明日は5時半起きで仕事だけど、書かないと駄目だと思ったので。
良かったら読んでください。
駅で降りた瞬間の、いつもの湿っぽい匂いと、真っ暗な空。
ああ、帰ってきた。
いつもの道でいつもの家へと帰る。
祖父、祖母、父、母、姉の久しぶりの顔。
いつも通りみんな元気だ。良かった。
そしていつも通り、妙なバランス感の家族だ。
気合の入った母の手料理。いつも以上に、美味しかったな。
あれ。でも何かが足りない。
そうだ。
アミーがいない。
10数年間、ここに彼は居続けた。
不自然だ。アミーの居なくなった家。
もう、アミーの臭いがどこにもないんだ。
毛も落ちていない。
いつも遊んでいた豚のぬいぐるみがない。
ゲージもない。
いつも家族の帰りを待っていた小さい命は、もういないんだ。
いつも通りという感覚に、どれだけ自分の世界を構築されたんだろう。
涙が、溢れ出てくる。
これが、残されたものに与えられる死の感覚。
ずっと離れて暮らしていた僕は、初めてその感覚に陥った。
たかが犬で。
こんなふうに思う人もいると思うけれど、本当にそう感じたんだ。
その時、ふと目に付く。
アミーの写真が飾ってある場所に置いてあった絵本。
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【虹の橋】
天国の、ほんの少し手前に「虹の橋」と呼ばれるところがあります。
この地上にいる誰かと愛しあっていた動物たちは、
死ぬと『虹の橋』へ行くのです。
そこには草地や丘があり、彼らはみんなで走り回って遊ぶのです。
たっぷりの食べ物と水、そして日の光に恵まれ、
彼らは暖かく快適に過ごしているのです。
病気だった子も年老いていた子も、みんな元気を取り戻し、
傷ついていたり不自由なからだになっていた子も、
元のからだを取り戻すのです。まるで過ぎた日の夢のように。
みんな幸せで満ち足りているけれど、ひとつだけ不満があるのです。
それは自分にとっての特別な誰かさん、残してきてしまった誰かさんが
ここにいない寂しさを感じているのです。
動物たちは、みんな一緒に走り回って遊んでいます。
でも、ある日その中の1匹が突然立ち止まり、遠くを見つめます。
その瞳はきらきら輝き、からだは喜びに小刻みに震えはじめます。
突然その子はみんなから離れ、緑の草の上を走りはじめます。
速く、それは速く、飛ぶように。あなたを見つけたのです。
あなたとあなたの友は、再会の喜びに固く抱きあいます。
そしてもう二度と離れたりはしないのです。
幸福のキスがあなたの顔に降りそそぎ、
あなたの両手は愛する動物を優しく愛撫します。
そしてあなたは、信頼にあふれる友の瞳をもう一度のぞき込むのです。
あなたの人生から長い間失われていたけれど、
その心からは一日たりとも消えたことのなかったその瞳を。
それからあなたたちは、一緒に「虹の橋」を渡っていくのです。
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アミー。今、いっぱい野原で遊んでるかい。
また、逢おう。必ず。
P.S.
まりえちゃん
このブログのタイトルの、「終わらせるために生きる君へ」について。
うん、僕的にはすごく意味を込めました。
今日はすごく自分的にも死を身近に感じてきたので、少しだけ込めた想いを綴ります。
「死」
というものは表裏の関係ではなく、一直線上の先にある、ちょっとした出来事やきっかけなんだと僕自身は考えています。死んで、本当に終わるなんて気がどうしてもしない。そこに根拠はないよ。そう感じるだけ。僕は無宗教だから、神様はよくわからない。
それでも死しか確定していない上で、この世界に生を授かったんだ僕たちは。
だから、死ぬことは生きたことなんだと思います。
此処は生きることが前提の世界で、踏切の向こうや崖の下は死の世界の入口なのかもしれない。
すぐそこに、ヒントがあるんだ、生きるという根本を掴むヒントが。
だから、死ぬために生きて、何が悪い。
いいと思うんだ、僕は。
だってそれは、みんな平等だから。
皆ヒントを見逃さず、強力な人生にして欲しい。
オリジナルの終を強力に迎えるため、僕は明日も生きていたい。
終わりを迎えることは、心が砕けるほど寂しい。
でも、悲しくはないんだと思っています。
Artrandom
各務
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